2012年3月30日金曜日

本当の人生: それは一体どういうもので、どこにあるのか?


充実した人生、人生の目的を見い出した3人の人たちの証し

人生の意味って何だろう?なんて考えたことありますか。
ただ生きているって言うだけじゃなくて、もっとそれ以上の何かがあるんじゃないかな。ここに紹介するのは、神様に出会い、その人生が変えられた人たちの体験談です。

僕が発見した本当の充実感
(ジョン)

山登りが好きで、ある山を目指していた人が、じっさいそのゴールを達成した後になにか満たされない思いを感じた、なんていう話を聞いたことがあるでしょう。
言ってみれば、フットボール選手が、スーパーボウルに勝ったその後で憂うつになってしまうようなものかもしれません。

僕の大学生活はまさにそんな感じだったんです。大学4年になった頃には,人がうらやむものはたいてい手にしていました。フラタニティーに入り、いろんなパーティーに明け暮れ、成績もまあまあ、そしていろんな女性と付き合ったりもしたんです。

大学時代に成し遂げようと思っていたことはすべて達成しました。でも「山頂」に登りつめてみると、何か満たされない思いに駆られるのを感じたんです。どうしたらいいのか分かりませんでした。

もちろんそんなそぶりは少しも見せなかったので、僕の友達は、僕がそんな風に考えていたなんて少しも知らなかったんです。逆に、みんなは僕のことをうらやましく思っていたみたいで、そのとき僕がどんなにむなしさを感じていたかは知るよしもありませんでした。

フラタニティーの中にもう一つのグループがあったんです。なんとそれは「聖書」を読むグループだったんです。僕は何かあるごとに彼らを物笑いにしたり、あざっけったりしていたんですが、同時に何か自分にはないものを彼らが持っていることに気づいていたんです。まるで人生の意味が何なのかをを知っているかのようでした。

大学を卒業した夏、ある教会の聖書研究会に誘われました。なぜか行ってみることにしたんです。多分いつもより心がオープンになっていたんだと思います。一人の人が聖書から話し始めたとたん、僕は本当に驚いてしまいました。「この人の言っていることは本当にそのとおりだ。」聖書で言っていることがいかに正しくて、いまの自分の人生にぴったり当てはまるかということを思い知らされたんです。

その時まさに神様が自分の心の扉をたたいているように感じました。でも僕の心にはまだ戸惑いがあったんです。神様を信じたときに僕の人生はどんな風に変わるんだろう、友達は何て言うだろうか。とても怖かったんです。でも色々と思いを巡らせている時神様は、僕が神様を信じ、神様との新しい関係を持つことが必要だということを示してくれました。そしてその時、神様を自分の心に招き入れることができたんです。

その後で自分が体験したことを話すのはとても難しいことなんですが、一言で言うと、僕は神様に出会ったということなんです。そして神様に出会った瞬間、人生の意義を見い出すことができるようになったんです。今まで体験したことのなかった充実感を見い出すことができるようになりました。心の中の大きな「穴」が満たされる思いでした。その時から今までこの充実感をいつも体験しています。

僕が体験したことは何も特殊なものではありません。これは、イエス・キリストが全ての人に差し出していて下さるものなのです。イエス・キリストは言われました(また今も語っておられます。)。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」[

人生は楽あり苦ありです。がっかりすることや、色々な問題に出くわしたりもします。でもそんな中でも、イエス・キリストがいつも僕とともにいて下さるので、充実した、意義深い人生を歩むことができるのです。


銀器を明るくする方法

受け入れられることの意味
(ロバート)

僕がまだ小さかった頃、季節ごとに特別なテレビ番組があったのを思い出します。ハロウィーンのチャーリー・ブラウンとか、クリスマスのグリンチなんて言うのがありました。でも季節を問わずいつも愛されていた番組がありました。そう、それは「魔法使いのオズ」なんです。

みなさんは話の内容を覚えているでしょうか。この話はドロシーが突然カンザスの家から、オズと言うところに吹き飛ばされてしまうというところから始まります。
ドロシーはたまたま魔女を退治したということで、いきなりみんなの人気者になってしまうんです。みんなから尊敬され、もてはやされはしたものの彼女の中にある本当の望みはかなえられませんでした。その願いとは家に帰るということだったんです。そして、この魔法の国では一つだけその願いをかなえる方法がありました。その願いをかなえるためには魔法使い、つまり、オズの魔法使いのところまで行かなければならなかったんです。その旅の途中でドロシーは三人の供を得、この魔法使いに会うことを夢見ながらその旅を続けていくのでした。

でもその後で何が起こったか覚えていますか。彼女たちを待ち受けていたのは、親切で、優しい魔法使いではなく、何とかドロシーたちを追い出そうとたくらむ、短気で、怒りに満ちた人物だったんです。ドロシーが彼女の願いを打ち明けると、この魔法使いはこう言いました。「その願いを聞き届ける前に、お前たちはそれにふさわしいことを証明しなければならない。」この魔法使いがドロシーに言い渡したのは、ほとんど不可能とも言える課題だったんです。それはドロシーが以前退治をした魔女の妹の、魔法のほうきを奪い取ってくるというものだったんです。

しかし驚いたことに、ドロシーたちは魔法のほうきを手に入れ、帰ってきたのです。この魔法使いはそれでも何とかドロシーたちを追い出そうとします。ドロシーがこの魔法使いに取り入っているとその時、とても奇妙なことが起こったんです。ドロシーの飼っていた犬(トト)が何かおかしな臭いをかぎ取ると、それは部屋の片隅のカーテンから出ていることが分かりました。トトがそのカーテンを引き剥がしたとき、そこに現れたのは魔法使いの本当の姿だったんです。それは魔法使いなんかではなく、ただの老人だったんです。

僕にとって、神様っていうのはこの魔法使いのような存在だったんです。とても怖くて、僕のことなんか何も理解してくれていないと思っていました。子供ながらに心の中に描いたこの神様に対するイメージは、僕を神様から遠ざけ、神様はどこか遠くに住んでいて、とても近づくことなんかできないと信じきっていたんです。十字架にわたしたちの身代わりとして死なれたということは理解してはいたものの、何か仕方なくそうしてくれたんだっていうイメージが付きまとっていたんです。だから神様はいつも、僕がどれだけ清く、正しく生きることができるかだけを見ておられると思っていました。神様に受け入れられるためには、それを証明しなければならないと感じていました。「優しい方」とか、「素晴らしい方」とか言う言� ��は、僕の神様に対するイメージとは全くかけ離れていたものだったんです。

しかし、大学に入ったときこのことは一変したんです。そうまさにカーテンが取り去られたのです。生まれて初めてある友人が、聖書から神様がどんな方なのかを説明してくれたんです。それまで、聖書は何か煙に包まれた書物だと思っていました。しかし、そこに描かれている神様とは、愛の方であり、哀れみといつくしみに満ちあふれた方であったのです。神様は僕が完全な人生を歩むことができないことをよくご存知であったので、その愛のゆえに、完全な人の姿を取り、僕の代わりにその基準を満たして下さったのです。


不況ガラスのピラミッド

僕が知ったイエス・キリストとは、ただ模範となる方ではなく、僕の罪の身代わりとなって下さった方だということなんです。だから僕がイエス・キリストが味わわれた苦しみを味わう必要はなく、ただキリストが僕のために味わわれた苦しみのゆえに、感謝を捧げることしかできないんだということが分かったんです。十字架で(主は自らすすんでこの十字架にかかられたことを学びました。)僕のあやまち、また全ての罪は裁かれ、赦されたのです。この十字架によって主はわたしたちに対する愛を示して下さいました。聖書にはこう書かれています。「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」[

僕は、このカーテンの後ろにおられる方に出会ったとき初めて、そのままの自分を受け入れてもらうことを体験しました。ですから是非みなさんにもこのカーテンを取り払い、その影におられる方を発見していただきたいと思うんです。そして、神様の与えてくださる本当の愛と赦しを体験して頂きたいと思います。

私の発見した生き甲斐
(マリリン)

人生にはどんなことにも必ず意味があるって私、いつも信じていたんです。もちろんあまり意味を感じないことも多くあるんですよね。たとえば、洗濯している時なんかは特にそう感じます。いつもまじめに生きる必要もないし、時には、はめをはずして楽しいことをすることもとっても大切です。

でも人生ってただ楽しいことを追求するだけのものじゃないと思うんです。というのは、楽しみって長続きしないんです。楽しい時をすごしていたかと思うと、次の瞬間もうそれはどこかに行ってしまっているんですよね。作家のラヴィ・ザカリアスはこんな風に言っています。「人生の意味がないとしたら、私たちを動機付けるもの、また私たちの存在理由そのものをも失ってしまうことになる。」

何年も前のこと、私は色々な哲学について勉強してみたことがありました。ドストエフスキー、サルトル、ニーチェ、ソクラテス、その他にもいろんな哲学者について学びました。きっと誰かは、私の人生に目的を与えてくれるに違いないと期待していたからなんです。新しい哲学について学ぶたびに、「これはどうかな?」って考えました。でも自分の人生に照らし合わせてみたときに、それはたいした助けにはならなかったんです。でも私はあきらめずに探し続けました。

ある時、ニュース雑誌「タイム」の国際ニュース部門解説員の一人、デイビッド・アイクマン氏がこのことについて見解を述べているのを目にしました。この人は、大学院レベルの学位をいくつか取得していて、ロシア、中国情勢、共産圏問題を専門としています。30カ国を行き来しながら、6ヶ国語に堪能というこのアイクマン氏はまた、人生という問題についても真剣に取り組んでいる人だったんです。彼いわく、「人はそれぞれ存在している理由があって、人生の目的を持っているものなんです。しかしそれは、神を通してのみ見い出すことができます。」 さらにアイクマン氏は私たちが、イエス・キリストとの個人的な関係を持つことを勧めるのです。

アイクマン氏はこう語ります。「私が聖書にあるイエス・キリストの言葉を聞いたとき、まさにキリストが私に対して語って下さったように思えたんです。キリストが言われたことはこういうことだったんです。「私がいのちの道です。私に従い、私の言うことを行うなら、あなたの人生は変わります。」 キリストがまず第一に私たちに求めることは、私たちが一歩踏み出して、キリストとの個人的な関係を始めるということなんです。そのためには、イエス・キリストを心に招き入れなければなりません。またアイクマン氏は続けます。「もしこの一歩を踏み出すことができるなら、どんな人でも、その人生が素晴らしいものに代わることを私は保証します。」


なぜバービー人形のコールバービーです。

アイクマン氏同様、私も以前は無神論者でした。でもイエス・キリストが自分自身について語られた主張はある意味で他の誰とも違っていたんです。イエス様は人生についての哲学を人々に語られたのではなかったんです。むしろイエス様ご自身にその答えがあることを人々に示されました。キリストは、私たちがこのイエス・キリストを信じるときに、罪の赦しが与えられ、どんな状況にあっても平安を得ることができ、また本当の自由を手にすることができることを教えてくださったのです。

本当に神が存在するなら、その神様を知りたいと思いました。でも私の心にはまだ疑いの念があったんです。周りにいたクリスチャンの人たちと論争をしたりして、何とかこのイエス・キリストの存在が真実であることを突き止めようとしたのです。ある日、私は、心の目を開いてこのイエス・キリストという人物を見てみようと思いました。驚くべきかな、色々な資料を読みあさっているうちに、いくつもの事実がイエス・キリストの神性を論理的、歴史的に証明していることに気づいたんです。私はそのとき選択を迫られました。今このイエス・キリストを私の人生に招き入れるか、あるいは、もうこの「神」という存在については二度と考えないようにするかという二つに一つの選択だったんです。


頭の中で、キリストが信じるに値する方であることを再確認した後、私はイエス・キリストを心の中に招き入れることができました。そしてその日、私の人生の目的を探し求める探求の旅はついに幕を閉じたのです。

神様との親しい関係を持つことができるって言うことは本当に驚きでした。そのときから神様に祈ることを学びました。そして色々な状況を通して神様が私の祈りに答えてくださったことを知ることができたのです。仕事についても、神様は私が思いもつかなかった素晴らしい仕事に就かせてくださいましたし、抱いていたいくつもの疑問に対しても、聖書を通して適切な回答を与えて下さったんです。

これらの全てのことは、一日にして起こったことではありません。神様との毎日の関係の中で得られた結果なんです。何もこれは、特別私にだけ起こったことではないんです。むしろ、イエス様は、心から神を知りたいという願いを持ち、主に従いたいと思う全ての人の心の中に入ってきて下さるのです。

イエス様に従うときに、言葉には言い表せない喜びがあるんです。イエス・キリストとの個人的な関係を持てたことによって、他のどんな人も、またどんなことを通しても得ることのできなかった人生の本当の意味を見い出すことができたのです。

私たちは皆、充実した人生、意義ある人生、また人々から受け入れられることを捜し求めています。でもこの全ての答えはイエス・キリストにあるんです。今まで生きたどんな人もイエス・キリストがご自身ついて主張されたことを宣言できる人は誰もいませんでしたし、また実際その主張を証明できた人は一人もいませんでした。キリストは、ご自身が神であると主張され、また罪を赦す権威を持ち、私たちが父なる神に到達できるための唯一の道であると言われました。そして何よりも、死からよみがえることによりそのことを証明されたんです。イエス・キリストはただの宗教指導者ではありませんでした。イエス・キリストのように生きた人は今までただの一人もいなかったんです。

聖書は、神であったイエス・キリストが人となられた、と言っています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」[ 「神の本質の完全な現れ」[

多くの人が考えるように、徳を積むことによって神との関係をはじめるということはできないのです。神様は私たちの努力を期待しているわけではありません。みなさんは誰かを喜ばそうを一生懸命努力したような経験がありますか。人を喜ばせるのは本当に大変なことです。



神様は私たちを心から愛して下さっているので、自ら私たちが神に到達できるための道を備えてくださいました。でもこの神様と私たちを隔てているものが一つあります。そう、それは私たちの罪なんです。罪とは私たちの自己中心的な心の状態を指します。その結果として、怒りや、欲求不満、中傷、など様々な問題が生み出されるんです。祈りがかなえられないとよく感じるのはこのためなんです。この「罪」が私たちと、聖い神とを隔てているんです。

ではこの問題を解決するため、神様が私たちにしてくださったこととは何でしょうか。それは、イエス・キリストが私たちの罪をその身に背負い、私たちのために自ら十字架にかかってくださったのです。このことによって、私たちは完全に赦され、完全に受け入れられる者となったのです。

このことをよく説明している一つの例があります。ある大学生が法律に違反することを行ったため、裁判官から30日の留置、あるいは十万円の罰金を支払うことを命じられました。しかしこの学生にはその罰金を支払う能力はありませんでした。このことを承知していたその裁判官は、その椅子から立ち上がったと思うと、すぐさま来ていた判事服を脱ぎ去り、財布の中からその罰金を支払ったのでした。なぜこんなことをしたんでしょうか。裁判官としてこの違反を見過ごすことはできませんでしたが、被告人席にいるその学生こそはまさに自分の息子だったのです。そこでこの息子の代わりに、その父が罰金の支払いをしてくれたということなんです。

これがまさにイエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださったことなんです。私たちの罪のゆえに打ちたたかれ、侮辱され、むち打たれ、さらには十字架にかかってくださったのです。今このイエス・キリストが私たちに願っておられることは、私たちがこのことに感謝して、キリストを心に迎え入れることなんです。

神はわたしたちがキリストを通して、本当の愛、喜び、そして平安を知ることができることを望んでおられます。私たちがキリストを心に招き入れるとき、罪の赦しを体験することができます。そしてその瞬間から永遠に代わることのない神様との関係を持つことができるのです。キリストは言われました。「見よ。私は戸の外に立ってたたく。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私は彼のところに入る。」[

もしこれがあなたの心の願いを表しているなら、ここにキリストを招く祈りの例があります。(言葉ではなく、どういう心で祈るかが大事なのです。)

「神様、私はあなたに対して罪を犯しました。私の罪を背負って十字架にかかってくださったことを感謝します。私の罪を赦してください。今あなたとの関係を始めたいと思います。私の罪からの救い主、また人生の主として私の心にお入りください。あなたがくださる本当の充実した人生を私に与えてください。」

人生の意味についてもっと知りたい方は、[変えられた人生のみなもと]あるいはこのサイトにあるほかの記事をお読みください。



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